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 「飯田市大火後40年 写真にみる飯田の歴史刊行会編
 ふるさと写真館<飯田>」より
  (元鼎町長・元飯田市助役 伊沢睦<当時長野県飯田都市計画事務所長代理>
  発行:ぎょうせい 1988年10月25日初版)

 昭和22年4月。日曜日。連日の春日和で桜は満開。飯田市民は權現堂や今宮のお花見に出掛けている最中であった。午前11時58分頃八十二銀行の裏手から火の手が上がった。連日の快晴によると乾燥と、西南風がフェーン現象となって風速を増し、見る見る大火の様相を呈し、銀行の洋館の左右に分かれて市街地を北に向かって焼き払い、午後3時すぎ野底川沿いまで焼き尽くして漸くとまった。
 私は親せき知人の家財の運び出し等にかけ廻った末、野底川べりで田口の酒屋の工場が焼け落ち、立ち並んだ醸造タンクに火が入って、美しい五色の炎を上げて酒が焼ける景色を茫然と暫く見入っていた。
 全焼戸数4,010戸。焼失延坪136,475坪。過去に飯田市はたびたび大火はあったが、有史以来の大火災となった。大火の跡は必ず雨が降る。夜に入って小雨の中に、焼け残ったが火の入った土蔵が次々と鈍い音をたて、屋根が落ちると共に炎を上げるのも印象的であった。
 翌21日から早朝より市役所はじめ、各役所の活動が始まった。前年7月飯田駅前の大火事があった後でもあり、県も飯田市も市民も徹底的な防火対策と近代的な都市計画を立てるべきだと言う機運になって23日には建設省の山田技官を初め県の玉村、下村都市計画技師が来飯し、高田市長、本堂助役、加賀見土木課長、県出先機関の長を交えて、徹夜で「飯田市火災復興都市計画事業」として今日見られるような復興計画が立てられた、なお、建設省より来られた山田技官は、大戦中爆撃によって壊滅した日本の多くの都市の復興計画を立てられた、その道のベテランで、翌日は早くも木曽の上松町に向かっている。
 なお、当日の協議により決定した飯田市の復興計画と措置は次の図面と文章の通りである。

◇飯田市復興都市計画基本方針
(1)飯田市の火災の経験並びに風致上の見地から、市街地の南部の段丘の突端は公園又は緑地として保存する。
(2)階段状の劃地は極力整備し、同一平面とする。
(3)市街地を東西南北三本の防火帯で分割し、その中央に防火用水(水路並貯水槽)を設置し、防火機能の拡充を図る。
(4)旧来の用水を整備し、之を防火用水として完全利用を図ると共に市街地に貯水池を設置し之を連絡する
(5)旧来の街路面積は僅かに市街地の5%に過ぎず、著しく建築密度が過大であったから、街路、公園放火帯等の公共地を市街地面積の25%程度とし、別途建築制限と相まって適切なる空地の確保を図る。
(6)劃地の裏界線を連続形として此処に通路を設け、常設の利用は勿論防火活動に資する。

■第二措置
(1)焼失地域並びに之と一帯の地域、約227,850坪の地積に対して都市計画区画整理事業を実施し、急速且つ円滑なる実現を図る。
(2)土地区画整理の実施に当たっては建築物の復興を容易ならしめる為速やかに土地使用区域を指定する。之が為従来の地積は実測によらず土地台帳地積を基準とする。
(3)原則として府県道の外の事業は市に於いて実施する。(3ヶ年間)
(4)完成目標時期は昭和25年3月とする。

<計画の実施>
 なお計画の実施を急速に行うためには、市の僅かなる戦力のみでは足りないので、市の要請により、県の技術職員が続々と送りこまれ、大火後直ちに詳細な火災跡地の測量を始め、更に長野県飯田都市計画事務所を急遽設置し、所長には前飯田土木出張所長で当時県都市計画課長の上野実昭氏が派遣され、直ちに拾数名の県のエキスパートが職員として任命され着任した。小生も兼務のまま着任した。事務所は初め本町4丁目の三六組の二階を借りて仕事を始め、やがて錦町の元の消防署のある所へ新しく事務所を建て、業務に当たった。
 当時は占領軍の支配下にあって、県の行政も占領軍の監視下にあった。ストラットンさん、ケリーさんなどが度々来飯していた。ことにケリーさんは火災の当日来飯中で、大火のさ中にジープでカメラを持って飛び廻っていた。また地方事務所で度々開かれる各出先機関の打ち合わせにも出席し、「議論よりまず実行だ。」などの名言を吐いた。
 同氏はのち「ケリー旋風」と言われて、県の教育界を震撼させたご本人であった。ストラットンさんも度々来飯され主として三宜亭に止宿していたが、旅館でいい顔をしないので、当時地方事務所長の久保田良一さんが苦慮され、鼠の殿様と仇名をつけられていた斉藤総務課長が随分対策に骨を折った秘話があるが省略する。
 一方、家を焼かれた揚句に公共用地に自分の土地まで取られる市民が防火道路予定地内に家を建て始めて弱っている時、進駐軍の「示唆」なるものが県知事に示された。「県知事は飯田都市計画の供出用地内に建てられはじめた家屋その他の物件を8月末までに撤去させるべきである。」というものであった。この示唆(サジェスト)なるものが知事にとっては、こわいもので命令以上の力を持っており、この一片の通達で、土地供出に反対して仲々私たちの言うことを聞いてくれなかった市民の皆さんも「あっ」と言う間にキレイに取り払ってくれた。
 街路事業も市民の皆さんの協力を得て予定通り進行し、松川、野底川よりの用水路の改修、市内に配置された17ヶ処の100屯貯水池も完了、市内寺院の墓地の整理は市の苦心の末、現在のような形に収まり、昭和25年4月、県の都市計画事務所も任務を完了して20余名の職員は夫々元の古巣へ帰った。(追記略)



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