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 「図説 下伊那の歴史<下>」 より(片桐 億/株式会社郷土出版社 1995年3月2日発行)

 昭和22年4月20日日曜日、この年は桜の開花が例年より遅く、ようやく満開になった今宮公園(現今宮球場)や上飯田の権現堂の桜見物に市民や近郷の人々が繰り出していた。この日は戦後初の参議院選挙の日でもあった。また、飯田中学校(現飯田高校)校庭では小森投手を擁する松本市立中学校を迎えて野球の試合が行われていた。空はどこまでも青く、絶好の行楽日であった。多少風はあるものの春の暖かい陽射しを浴びて人びとが楽しくご馳走の詰まった重箱を開けた午前11時48分、一筋の煙が市内の扇町から上がった。しかし、誰ひとりとしてこれが飯田始まって以来の未曾有の悲惨な大火の前兆とは思わなかった。火災発生当時、折からの好天続きで空気は乾燥(湿度33%)しており、そのうえ約4メートルの南風が市街地の南橋を流れる松川から吹き上げていた。そのため火はたちまち知久町一丁目に広がった。午後1時半頃になると風速はさらに強まり、14メートルの強風となった。そのためさらに火勢は強まり、14メートルの強風となった。そのためさらに火勢は強まり、市内西北西方面12か所に飛び火し、午後3時頃には桜町の北まで延焼して市の中心部を火の海と化した。火災の拡大とともに、遠くは辰野町など上下伊那郡の各消防団が駆けつけ消火に当たったが、手のつけようがなかった。これほどの大火になったのは気候条件もさることながら、延焼を恐れた市民が一斉に消火栓を開いたため水圧が下がり初期消火に失敗したためといわれている。一応延焼の危険が去ったのは午後8時過ぎで、完全に鎮火したのは翌21日の午後5時頃であった。罹災面積60万平方メートル、罹災戸数3, 577戸(4,010世帯)、被災人員1万7,778人、罹災した町51町、死者・行方不明3人、重軽傷者169人、被害総額約15億円(当時の金額-標準白米60キロ小売り売価約600円)という飯田市始まって以来の大火であった。21日の夕方には気温が下がりみぞれとなり、夜半には疲労と困ぱいの罹災者に追いうちをかけた。1日にして古い城下町は焼け野原の焦土と化したのである。

 幸い市内の学校は罹災を免れたので、体育間は被災者の仮の住まいとして提供された。
 この大火により碁盤の目の街並みで小京都といわれた古い城下町も消えてなくなったばかりでなく、祭りに使われた各町の豪華な山車も焼失し貴重な文化財を失ってしまった。

 飯田は火災の多い街で明治以降これまでに数十戸以上焼失した大火が6回もあったが、前年の飯田駅前の198戸焼失という大火に続く大火にショックを受けた市並びに市民はノーモア大火を合い言葉に、私有地の2割無償提供などして通り町・荒町(現中央通り)などの各町の道路の拡幅と、新たに並木通りの防火地帯を設けたほか、各地に地下貯水槽を作り、以前からある城下町の特徴である裏界線を生かした新しい都市計画による防火都市として生まれ変わった。以後は大火は飯田市からなくなり、現在に至っている。




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